働き方とは
今日は仕事の兼ね合いで、大学生2人と食事をした。
大学生の話題と言えば、なんだかんだで就職がテーマになる。
今日は食事をしながら、大学生2人が就職活動の進捗について話しているのをぼんやりと聞いていた。
出てくるのは、僕でも名前を知っているような一流企業ばかり。
そうした企業に入れれば、このご時世とは言え比較的安定した人生を送れるのではないかと思うのだけど、それは僕が大企業というものにさっぱり縁がなく、実情を全く知らないからなのだろうか。
大学生からは、フリーランスという働き方についても質問を受けた。
僕は「つまるところフリーター、無職みたいなもんだよ」と答えた。
これは僕がフリーになる前に、とあるフリーライターから実際に言われたことでもある。
そして、こうも伝えた。
「とにかく、自由である」と。
僕がフリーランスになって一番良かったと思う点は、自由になったことだ。
いつ寝ても、起きても、遊んでも、働いてもいい。
今の立場になって、「どこどこに何時に出勤する」というのを他人に決められるのが、自分にとってとんでもなく大きなストレスになっていたことが分かった。
それがなくなっただけで気分がいいし、今更そうした生活に戻りたくはない。
ただ、自由の代償に、それなりに大きなリスクも背負っている。
仕事、すなわち収入がいつなくなるかも分からない、不安定な立場だということ。
世の中に対する信用は、個人である以上のものはないということ。
家やら車やら、各種ローンだって、会社員に比べれば格段に通りづらい。
誰も、自分という存在を保障してくれないからだ。
全部、自分で何とかするしかない。
「フリーランス」と言えば耳障りはいいが、おぼろげで不安定で、自分個人の存在を世の中に問い続けなくてはならない、非常にリスキーな生き方だと、僕は解釈している。
近頃ではフリーランスという働き方を国自体が推奨する動きもある。
「会社に縛られない生き方」だとか、フリーの魅力を語る人もたくさん見かける。
僕は、他人に勧めようとは思わない。
組織に属することが向いているならばそうするべきだろうし、会社員よりもフリーが向いているならば、自分の力で人生を切り開いていけるならば、そちらに進めばいい。
あるいは、会社員、組織に属することがダメな人間で、そこで耐えることがどうしてもできないならば、最終的にはフリーとして生きるしかないだろう。
結局、自分次第でしかないのだ。
僕の場合はある意味で自戒を込めて、自分のことを「会社や組織でなじむことができなかった、社会不適合者」と位置づけている。
組織の中で大人に振る舞うとか、それこそ「忖度」するなんてことは苦手だったし、そもそも嫌だった。
きっと、世の中のまっとうな大人はそうしたことを、好む好まないにかかわらずやっているのだろうけれど、僕にはどうも無理だった。
ただ、それでも生きていかなければならないし、結果的に手に入れた自由は、何としても守らなければならないと考えている。
だから仕事は断らないし、請けた仕事は責任を持ってやりきる。
時にはミスもあるけれど、それも含め、今後もお仕事をいただける関係性を作っていく。
そうしなければ今の心地よい環境を手放すことになるだけでなく、最悪の場合、死んでしまうからだ。
大学生たちの話を聞きながら、僕はそんなことを考えていて、その一部を伝えた。
そして最後に、「今ならどんな選択肢も選べるよ」と言った。
大学生たちには、大企業に勤める、ベンチャーでのし上がる、フリーになる、海外に行くなど、さまざまな選択肢がある。
もはや1人で生きていくしかない自分にとっては、そんな未来ある若者たちが、少々うらやましく思えた。
この投稿へのトラックバック
トラックバックはありません。
- トラックバック URL
この投稿へのコメント